ヒップホップにおけるプロデューサーとは、当初はマーリー・マールのように自身のクルーや〈 Cold Chillin’ 〉の作品を一手に引き受けるイン・ハウス・プロデューサーか、ギャング・スターにおけるDJプレミアのようにグループのプロデュース担当というポジションが主流だったが、いつしかどこのグループにも所属せず、お抱えのレーベルも持たないフリーランスのプロデューサーが台頭し、同様にグループのプロデューサーが他のグループやMCにビートを提供することが当たり前となってきた。
関係性の上下はあれど、ビートを売る立場のプロデューサーにとってはソロのMC(もしくはプロデューサーを持たないグループ)はクライアントとなるが、ゼロから仕立てたビートや予め作り溜めておいたビートがクライアントの好みに合わないケースも当然起こる。もしくは、たまたまスタジオに居合わせた他のMCがそのビートを欲しがることだってあるかもしれない。ヒップホップはいつだって競争だ。
その経緯は多種多様ながら、本来は別のアーティストがそのビートでラップするはずだった、というエピソードが往々にしてある。特に有名なものを二回に分けて紹介しよう。
ナズのレコーディング・デビューはご存知の通りメイン・ソースの“Live at the Barbeque”の1stヴァースだが、『Illmatic』からのデビュー・シングルは“Halftime”である。ラージ・プロフェッサーが手がけたこのシングルのビートは、元々はバスタ・ライムスのために作られたものだった。まだリーダーズ・オブ・ザ・ニュー・スクールのメンバーだった92年、目の前で“Halftime”のビートが作られたときのことをバスタは振り返る。
バスタ・ライムス「ラージ・プロフェッサーの家に遊びに行ったら、目の前で“Halftime”のビートを作ってくれて、そのときはオレにくれるって話だったんだよ。でも、どうラップしたらいいのかわかんなかったんだ。あのビート大好きだったのに、なんでどうしたらいいのかわかんなかったんだろう。でも後で“Halftime”を聴いて、このビートで何もしなかったオレはなんて馬鹿野郎だ!って思ったよ」
サラーム・レミがフージーズのために最初にした仕事は彼らのデビュー・アルバム『Blunted on Reality』からのセカンド・シングル“Nappy Heads”のリミックスだった。その仕事の後、ファット・ジョーがレミの家に来て、「ヨォ、フージーズにあげた“Nappy Heads”みたいなビートをオレにもくれよ」と依頼してきた。ジョーのリクエストに応えてレミはビートを作るのだが、それは後にフージーズの歴史的なヒット曲“Fu-Gee-La”になるビートの原型だった。
サラーム・レミ「あいつにビートを聴かせたら、『これがイケてるのか、マジでイケてるのかそれとも全然イケてないのかわかんねえ』って言ったんだ」
結局ジョーはそのビートを使わないことに決めた。その後、映画『クロッカーズ』のサウンドトラックのためスタジオで仕事をしていたレミの元に、「また一緒に仕事をしたい」とフージーズの面々が訪ねてきた。
サラーム・レミ「『クロッカーズ』のセッション中にあいつらに(ファット・ジョーのビートを)聴かせたら、ローリンが気に入ってなかった。彼女は“Nappy Heads”と同じだと思ったんだ。でもワイクリフは急に立ち上がると、デカい声で『オレたちはずっと十番手だったけど、これからは一生一番だ(We used to be number ten, now we’re permanent one)』って言うんだ。これが(“Fu-Gee-La”での)彼の出だしのラインになった。結局みんなあのビートに納得して、使うことになった。それがこう(大ヒット)なったってわけ」
後にスローターハウスのメンバーとして活躍することになるロングビーチ出身のクルックド・Iは、1995年、まだティーンエイジャーの頃に〈 Virgin 〉傘下の〈 Noo Trybe 〉と契約をしていたことがある。アルバムどころかシングルを出す前に〈 Virgin 〉が〈 Noo Trybe 〉を閉鎖してしまったため、そこで契約を切られてしまうが、当時ジョニー・Jから“How Do U Want It”のビートを聴かされたエピソードを語っている。
クルックド・I「まだガキだった頃、最初のレコード契約のときに2パックの“How Do U Want It”のビートをもらったけど、パスしたんだよ。でもオレには持論があってね。西海岸からリリースされた曲でパスしたものはたくさんある。スヌープがやった曲をパスしたこともある。オレのやり方でやったとしたら、大したインパクトはなかったかもしれないし、もっと大きなものになったかもしれない、というのがオレの持論。彼が“How Do U Want It”でダブル・プラチナム・ヒットになったからって、それがオレにも当てはまるとは限らない。でも〈 Virgin 〉の事務所で確かにあの曲は聴いて、『うーん、オレはいいや』って感じだった。ところが数ヶ月後、200万枚売れたんだぜ」
ブート・キャンプ・クリックから、ブラック・ムーンに続いて頭角を表したテックとスティールからなる二人組、スミフ・ン・ウェッスン。“Sound Bwoy Bureill”は元々“Wrekonize”のB面曲だった。KRS・ワンは初めて“Sound Bwoy Bureill”を聴いたとき、気が狂ったと思ったそうだ。たしかに取っ付きにくさはあるものの、同曲を収録した『Dah Shinin’』のエグゼクティブ・プロデューサーであるドゥルー・ハが「あの曲が特別だってのはわかってたけど、クラブやラジオのミックス・ショウを席巻するまで、リリースしてから丸々一年かかった」と回顧するように、濃い目のラガ・テイストで味付けされたこのスモーキーな逸品は、徐々にストリートで支持を集めていき、今ではこのデュオの代表曲だ。だがこれも、元々は同じブート・キャンプ・クリックでも別のデュオ、ロックとラックからなるヘルター・スケルターのために用意されたものだった。プロデュースを務めたダ・ビートマイナーズのミスター・ウォルトは振り返る。
ミスター・ウォルト「あの曲がヒットするまでどれくらいの時間がかかるのかはあんまり考えてなかった。オレはそっち方面には関わってなかったから。ただ、誰に聴かせてもあのビートが際立ってたことは間違いなかった。唯一“Sound Bwoy”に抵抗があったのが、ロックとラックなんだよ。元々あれはヘルター・スケルターのために作ったんだ。あいつらに聴かせたら気に入らなかったんだけど、テックが『オレにやらせてくれ』って言ってきてね。あとはご存知の通り。ヘルター・スケルターだったらどんな風になってたのかは誰にもわかんないな」
“Top Billin’”は、オーディオ・トゥー(もしくはプロデューサーであるステツァソニックのダディー・O)の最大の偉業である。ザ・ハニー・ドリッパーズの“Impeach the President”のドラム・ブレイクを組み替えたビートに、うっすらと聴こえる「Go! Brooklyn!」というチャント。ヒップホップにおいてブルックリンという街に光を当てた最初の曲であるが、この曲に関わる一つのエピソードがある。
LL・クール・Jの6枚目のアルバム『Mr. Smith』からのシングルで、ビルボードの「Hot 100」チャートで最高9位まで駆け登るヒットを記録した“Doin’ It”。この曲のオープニングを聴いてみよう。“Top Billin’”と全く同じ、ステッツァソニックの“Go Stetsa I”から引っ張ってきた「Go! Brooklyn!」というチャントが聴こえるはずだ。だが、LLはクイーンズの出身である。では、なぜ「Go! Brooklyn!」のチャントが組み込まれているのか? 答えはシンプル。パフィーの〈 Uptown 〉時代からの盟友ラシャッド・スミスが手がけた“Doin’ It”のビートは、ブルックリン出身の傑物、ザ・ノトーリアス・BIGのためにこしらえられたものだったからだ。ビギーのソフォモア・アルバム『Life After Death』からの重要なファースト・シングルのために用意されたビートだったが、ビギーとパフィーが使うことがなかった理由はただ一つ、金の問題である。ラシャッド曰く、パフィーは腰が重く、提示した金額も1万ドルだったが、LLはビギー用に作られたそのビートを買うために2.5万ドルを喜んで払う準備ができていたという。結局ビギーは“Doin’ It”の代わりに“Hypnotize”でカムバックし、“Doin’ It”を超える〈 Hot 100 〉チャートの首位に輝くスマッシュ・ヒットを記録するが、果たして“Doin’ It”だったらどうなっていたのだろうか。
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