あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ
- イージー・E
あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ
- イージー・E
あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ
- イージー・E
あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ
イージー・E
映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の後半では、〈 Ruthless 〉が経営難に陥った結果、所属アーティストへの支払いもできないほどに困窮し、心が荒み落ちぶれていくイージー・Eの様子が描かれていた。ドクター・ドレーが『The Chronic』でNWA時代を凌駕する成功を遂げる一方で、イージーは手にした豪邸を失う。一時は自暴自棄になりながらも、とある出来事をきっかけに再起の希望が見えてきたところでエイズが発症し、そのまま帰らぬ人となってしまう。成功と転落を描いたストーリーには惹きつけられるが、晩年のイージーは果たして本当にそこまでカネに困っていたのだろうか。
これも『ストレイト・アウタ・コンプトン』の中の印象的な一幕であるが、ドレーを懐柔し、〈 Death Row 〉帝国を立ち上げたシュグ・ナイトが、スタジオでイージーに集団暴行を働くシーンがある。暴力に物を言わせ、ドレーとDOCを〈 Ruthless 〉との専属契約から解放することに同意する書類に無理やりサインをさせる。ギャングスタとしてのプライドを粉々に砕かれたイージーはシュグへの報復を決意し、それを〈 Ruthless 〉の共同経営者であるジェリー・ヘラーに報告しに行くが、「バカな真似はよせ」と諭され、思い留まる。劇中では、このシュグ・ナイトによる暴行事件についてこれ以上掘り下げられることはないが、史実ではイージーの逆転勝ちとなる。
92年の10月、〈 Ruthless 〉はソニー・ミュージック、〈 Death Row 〉並びにそのオーナーであるシュグ・ナイト、ドレー、ディック・グリフィー、そしてディック・グリフィーとソニーのジョイント・ベンチャーとして運営されていたレーベル〈 Solar 〉を相手取り訴訟を起こす。主な訴訟内容はシュグ・ナイトらによる強迫行為を訴えるもので、さらにマナー・ロンダリングの告発や、彼らがマフィアなどの犯罪組織を取り締まる連邦法であるRICO法に違反しているという主張も含まれていた。ソニーと〈 Solar 〉が訴訟対象に含まれていたのは、ドレーが同年4月にリリースしたソロ・デビュー曲“Deep Cover”および、それを収録した映画『ディープ・カバー』のサウンドトラックが、〈 Solar 〉とソニー傘下の〈 Epic 〉からリリースされていたからである。
史実では映画ほどの暴力は行われなかったそうだが、それでも訴訟においては、イージーは〈 Solar 〉のオフィスにて、シュグとバットを持った彼の取り巻きに囲まれ、契約書へのサインを強要されたと主張されている。後にイージーと結婚するトミカ・ウッズが語るところによれば、シュグはイージーに対し、ジェリー・ヘラーを人質に取っていると脅し、また、彼の母親の住所を告げて、いつでも襲えると匂わせたそうだ。しかし、そのような状況下においても、イージーはサイン欄にミッキー・マウスを書き、反抗したという。
流石のシュグ・ナイト様でも司法が相手では分が悪く、訴訟の結果は〈 Death Row 〉の親会社である〈 Interscope 〉のジミー・アイオヴィン(後のドレーのビジネス・パートナーだ)が交渉人となり、〈 Ruthless 〉と和解をする。和解に伴い〈 Interscope 〉は、〈 Ruthless 〉とドレーの間の専属契約を破棄してもらう代わりに、ドレーのプロデューサー仕事による収益の10%、アーティスト名義の作品の収益の15%を〈 Ruthless 〉に支払わうことに同意した。
ドレーは、92年の12月に『The Chronic』をリリースし、2分ほどのイントロの後の実質的なオープニング・トラック“Fuck Wit Dre Day (And Everybody’s Celebratin’)”でイージーを痛烈にディスしたが、それに対し、イージーはセカンド・ソロ・EP『It’s On (Dr. Dre) 187um Killa』に収録された“Real Muthaphuckkin G’s”にて、余裕の笑みを浮かべてこう反撃した。
「“Dre Day”はオレにとっちゃ給料日(“Payday”)」
これは上述の通り、ドレーの曲が売れれば売れるほど、イージーの懐が潤っていくことから生まれた皮肉的なフレーズだった。イージーは93年12月のシカゴ・トリビューン誌のインタヴューでこう語る。「ドレーはプロデューサー、アーティストとしてオレと専属契約にあったんだ。だから『The Chronic』をリリースするためにはオレからOKをもらわなきゃいけなかった。オレは契約(訳註:ドレーと〈 Interscope 〉との間の契約と思われる)に含まれているから、向こう六年間、あいつがアーティスト、プロデューサーとして働いた仕事の全てから金をもらえるわけさ。あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Pay day)でしかないぜ」。あの意味深なパンチラインはこうして誕生した。
プロモーターのダグ・ヤングは、S・レイ・サヴィッジによる著書「Welcome to Death Row」にて「イージーはドレーの『The Chronic』の売上一枚あたり、25セントだか50セントだかもらっていたはずだぜ」と語っている。アメリカ・レコード協会の記録によれば、『The Chronic』はリリースから一年が経とうとする93年11月には、トリプル・プラチナム・セールス、すなわち300万枚以上の売上に達していた。これが意味することは、〈 Interscope 〉から〈 Ruthless 〉に対して、一枚あたり50セント計算で150万ドル以上が支払われたということだ。93年当時のドル円の為替レートで換算すると、およそ日本円で1億6,000万円。カリフォルニアで豪邸を維持し、酒池肉林のセックス・ライフ(イージーの「濡れ濡れパーティー」)を謳歌するには充分な金額ではないかもしれないが、少なくとも、アーティストに現金の代わりにハッパで現物払いしなければならないほど窮地に追い込まれていたとは考えにくい。
そしてもう一つ、生前のイージーがファット・ポケットだったと推測できる話がある。NWAの解散後、〈 Ruthless 〉が最も注力したグループはボーン・サグズ・ン・ハーモニー(BTNH)だった。『ストレイト・アウタ・コンプトン』では、スタジオのシーンで一瞬登場するウォーレン・Gと同じくらい扱いがひどいが、彼らの94年6月のデビュー・EP『Creepin on ah Come Up』は、リリースからわずか3ヶ月後にはプラチナム・セールスを、同年12月にはダブル・プラチナム・セールスを記録するクロスオーヴァー・ヒットとなった。ジェリー・ヘラーは、自身の伝記「Ruthless」でBTNHの当時の勢いについてこう語っている。「(シングル“Thuggish Ruggish Bone”は)大ヒットだった。カー・ラジオから、ビーチのブーンボックスから、どこに行っても(同曲のフックを歌っている)ターシャ・ウィリアムスの声が流れてきた」、「“Thuggish Ruggish Bone”は94年のサマー・アンセムだった」。
生前のイージーとは家族ぐるみの付き合いがあったラジオDJのフリオ・Gが語るところによれば、イージーはラジオ事業に力を入れており、フェニックス州にあるラジオ局の買収すら検討していたという。現物支給どころか、レーベルの経営はすごぶる順調、運転資金も潤沢だったであろう。順風満帆だとストーリーにドラマ性が欠けるためか、もしくは『ストレイト・アウタ・コンプトン』のプロデューサーに名を連ねるトミカ・ウッズが、劇中での自身の活躍の場面を増やすためか(そう、映画ではトミカ・ウッズが破綻寸前の〈 Ruthless 〉を救っている)、いずれにせよ、転んでもタダでは起きないイージーの逞しさやレーベル経営者としての商才が正しく伝わらないのは少し残念である。イージーは、ドレーやアイス・キューブがいなければ何もできない男ではないのだ。
©︎2023 IT'S MY THING