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HIP HOP 50

"Dre Day" only meant Eazy's payday

あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ

"Dre Day" only meant Eazy's payday

あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ

"Dre Day" only meant Eazy's payday

あいつはオレのことを軽くディスったけど、“Dre Day”ってのはイージーにとっての給料日(Payday)でしかないぜ

本当にヤバかった。クール・ハークは神のような存在だったんだ。

 1973年8月11日、時間は夜の9時、場所はウエスト・ブロンクスにある1520・セジュウィック・アヴェニューというアパートメントで、ヒップホップは誕生した。「South Bronx, south south Bronx!!」と叫ばれているが、実際はウエスト・ブロンクスであり、初期のヒップホップを象徴するいわゆる「ブロック(街の一区画)・パーティー」ではなく、50人程度しか入れない、椅子の代わりに牛乳瓶の箱(ミルク・クレイツ)が置かれた娯楽室(レクリエーション・ルーム)で行われたそのハウス・パーティーが開催された日が、ヒップホップの生誕記念日とされている。
 パーティーの主催者は十代の少女、シンディ・キャンベル。「お金を貯めていたの。地元のブロンクスよりも、マンハッタンのお洒落なお店で新学期用の服を買いたかったから。皆が持っていない最先端の服が欲しかったの」と、彼女はパーティーを企画した動機を説明する。入場料は女性は25セント、男性は50セントという慎ましいものだったが、代わりに出費を抑えるべく、DJを外注することはせず、彼女は兄のクライヴにレコードをプレイしてくれるようお願いする。
 手書きのフライヤーには“BACK TO SCHOOL JAM”と書かれ、クライヴのDJネームである「クール・ハーク」によるパーティーだと大きく銘打たれていた。

IMAGE_HIP HOP 50_01
The invitation flyer for "BACK TO SCHOOL JAM"

 では、具体的にこの日に何が起きて、ヒップホップが誕生したとされるのか? 事実をありのままに言えば、この日に何か特別なことは起こっていない。ただ、クライヴがブロンクスでパーティーを行い、DJクール・ハークとして初めて名を成した夜であり、その日付が記録(フライヤー)として残っているだけだ。

 実際、何をもってして「ヒップホップが生まれた」と定義するのだろうか。
 「ヒップホップ」という単語自体は、1974年、ラヴバグ・スタースキがザ・フュリアス・ファイヴのカウボーイとの掛け合いの最中に生み出した。その単語の響きを気に入ったアフリカ・バンバータが、「ゴー・オフ」や「ボーヨヨイング(Boyoyoing)」、「スキャット・ラップ」など様々な呼ばれ方をしていた音楽、引いてはストリート・カルチャーを「これはヒップホップだ」と御触れを出した。

 ラップはどうか? ラップ、それを曲に合わせて早口でライムするものと定義するのであれば、73年よりも前の60年代の後半に、伝説的なDJであるフランキー・クロッカーに影響を受けたDJハリウッドが「ラップ」のスタイルでDJを開始していた。ハリウッドはDJと名乗ってこそいるが、彼は別途DJを雇い、自分はおしゃべりに専念することすらあった。だが、彼がそのスタイルでDJを始めた日は(それがいつなのか正確な記録はないが)ヒップホップ誕生の瞬間とは見なされていない。それはラップがヒップホップの本質ではないからだろう。

 だが、記録に残っているからといって、ただのパーティーの開催日をヒップホップの生誕記念日だとするのはなぜだろうか? それは、それがクール・ハークのパーティーで、彼がヒップホップの原点を発見した男だからだ。

 ジャマイカのキングストンで、六人兄弟の長男として生まれたクール・ハークことクライヴ・キャンベルは、1967年の冬、十二歳のときにジャマイカからニューヨークはブロンクスへ移住してきた。父親のキース・キャンベルは熱心なレコード・コレクターで、レゲエに留まらず、ジャズやカントリーなど、幅広いジャンルの音楽のコレクションを擁していた。ジャマイカ訛りが酷かったクライヴは、アメリカのカントリー歌手、ジム・リーヴスの曲を繰り返し聴いては真似することで訛りを矯正したという。

 クライヴがブロンクスへとやってきた60年代後半、同地は複数のカラー・ギャングによる戦国時代であり、ブラック・スペーズやゲットー・ブラザーズなどのチームが鎬を削っていたが、クライヴはギャングバンギンからは距離を置き、当時流行していたグラフィティに熱中していた。彼のグラフィティ・ネームは、ジャマイカ訛りが原因で「クライヴ」ではなく「クライド」と聞き間違えられることが多かったことと、お気に入りの煙草の銘柄を組み合わせて、クライド・クールだった。
 ストリートでの火遊びと並行して、彼は学校では陸上やバスケット・ボールに精を出し、体格に恵まれていたことから級友に「ハーキュリーズ(ヘラクレスの英語発音)」と揶揄されていた。ハーキュリーズというあだ名は嫌いだったが、その短縮読みとなる「ハーク」の響きはイケてると感じた彼は、ストリートでの名前(クライド・クール)と学校でのあだ名を融合して、クール・ハークと名乗るようになった。

 元々父親の影響もあり音楽好きだったが、ハークがパーティーにのめり込むようになるのは、自宅が火事で焼失した事件の後だった。避難場所として一時的に暮らしたウエスト・ブロンクスのコンコース・プラザ・ホテルの地下にはプラザ・トンネルというディスコがあり、ハークはセジュウィック・アヴェニューに引っ越した後も、足繁くトンネルに通っていた。トンネルのDJの一人、ジョン・ブラウンは当時ニューヨークで流行っていた煌びやかなディスコ・ミュージックよりも、ジェームス・ブラウンのようなハードなファンクを好んでプレイするDJで、彼がパーティーのピークにJBの“Give It Up or Turnit a Loose”や“Soul Power”を流すと、ダンス・フロアは爆発的なエネルギーに包まれた。汗だくになって踊っていたハークにとって、それが理想的なパーティーの基準、目標となった。

 70年代初頭、ハークの父親のキースはブロンクスの地元のR&Bバンドの音響担当を務めており、新品のサウンド・システムを購入したばかりだった。「勝手に触るなよ」と父にきつく言われていたが、ハークは父の留守の間にサウンド・システムをいじくりまわし、そのシステムのパワーを最大限に引き出す配線方法を発見する。息子が発見したパワフルなサウンドを聴いたキースは大喜びし、バンドのライヴの幕間にハークがDJとしてレコードをプレイする仕事をこなす代わりに、ハークがパーティーをするときにはシステムを自由に使わせると、息子と約束を交わす。「シンディが“BACK TO SCHOOL JAM”でDJしてほしいって頼んできたのはちょうどこのときだった。皆がこのパーティに来て今までに見たこともないような馬鹿デカいシステムを体感することになったのさ」とハークは振り返る。

 最高のサウンド・システムに父親譲りのレコード・コレクションを武器にしたハークのパーティは大成功だった。シンディが言うには「稼ぎは300ドルから500ドルくらいね。数え切れないほどの25セントがあったわ」とのことだが、この“BACK TO SCHOOL JAM”の評判が広まり、ハークの娯楽室でのパーティは一回限りでは終わらなかった。ちょうどその頃、ギャングによる度重なる会場荒らしが災いし、ブロンクスのディスコの閉店が相次いでいたことも重なり、ウエスト・ブロンクスではハークを中心とした新しいパーティー・シーンが誕生することになった。

 ほぼ毎月、娯楽室でハウス・パーティーを開催するようになったハークは、ある日、歴史的な発見をする。「俺は煙草を吸いながら、曲が終わるのを待っていた。すると、皆が一定のパートを待っていることに気づいたんだ」
 その一定のパートとは、曲の途中にあるドラムのみ、もしくはドラムとベースのみで演奏される「ブレイク」や「ブレイク・ダウン」と呼ばれる部分だ。もし「ヒップホップが誕生したのはいつか?」という問いに正確な答えを用意するのであれば、ハークが「ブレイク」を発見したそのときこそが、ヒップホップが産声を上げた瞬間になるのだろう。

 リズム・セクションだけが熱狂的なグルーヴを生み出すわずか数秒、ないしは十数秒のブレイクこそダンサーが求めているものだと気がついたハークは、ブレイクがある曲、さらには曲のブレイクだけに焦点を当てたプレイ・スタイルに変化していく。ジェームス・ブラウンの“Give It Up or Turnit a Loose”に、インクレディブル・ボンゴ・バンドの“Apache”、ベーブ・ルースの“The Mexican”、ジョニー・ペイトとの“Shaft in Africa”といったパーカッシヴな曲のブレイク部分だけを次々とプレイするスタイルを、彼は“メリー・ゴー・ラウンド”と呼ぶようになる。そして、ブレイクの波が次から次へと押し寄せる“メリー・ゴー・ラウンド”を目的に集まったダンサーたちのことを次第に彼は「ブレイク・ボーイズ」、略してBボーイズと呼ぶようになった。パーティーの一番の盛り上がりとなるBボーイズたちのダンス・サイファーや、ハークの友人であるコーク・ラ・ロックによる軽快なラップでのMCも相まって、ハークのパーティーの評判は瞬く間にブロンクス中に広まっていく。その規模はいつしかハウス・パーティーからブロック・パーティーへと拡大し、それはやがてヒップホップという音楽、カルチャーへと進化していく。

 このように、ハークが発見した「ブレイク」と、そのブレイクだけを延々とプレイしていくスタイル、さらにはそのスタイルに磨きをかけていく一連のパーティーこそがヒップホップの原点となった。
 ハークのパーティーに影響を受けたアフリカ・バンタータとグランドマスター・フラッシュは、彼が生んだヒップホップを発展させていく。バンバータはヒップホップのカルチャー、ライフ・スタイルの側面に着目して、四大要素(DJ、MC、ブレイクダンス、グラフィティ)を提唱した。フラッシュは、生意気かもしれないがヒップホップの競争原理に従えば至極当然なこととして、ハークのプレイは稚拙で、自分の方が上手にできると考え、“メリー・ゴー・ラウンド”を改良する。

 実は“メリー・ゴー・ラウンド”については諸説ある。8月11日こそ、ハークが初めて二台のターンテーブルを用いて“メリー・ゴー・ラウンド”を世界に披露した日だとする説もあれば、ハークがターンテーブルを二台使い出したのは、フラッシュが二台のターンテーブルで理想的な“メリー・ゴー・ラウンド”を完成させてから、とも言われている。「The Big Payback」や「Dilla Time」の著者であるダン・チャナスがウォール・ストリート・ジャーナルに寄稿した記事「Was Hip-Hop Really Invented 50 Years Ago?」の中で、ヒップホップの映像、録音物のコレクターであるDJロブ・スウィフトは「ハークが“メリー・ゴー・ラウンド”のテクニックを使っているヴィデオを観たことないし、録音されたものを聴いたこともない」と明言している。また、ハークのインタヴューを読む限り、彼は自身のパーティーの最中に「ブレイク」を発見したようで、8月11日こそ“メリー・ゴー・ラウンド”が初めて世界に紹介された日であるという伝説は、ヒップホップの誕生神話が口伝されていく中で生まれたドラマチックな誤解ではないだろうか。

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 「二枚使い」の真の発案者は誰か、というヒップホップ研究者たちの間の終わりなき議論はともかく、ヒップホップの原点である「ブレイク」を発見し、それを軸としたヒップホップ・パーティを繰り広げていったのは紛れもなくクール・ハークであり、そこに異論の余地はない。だからこそ彼は「ヒップホップのゴッドファーザー」と呼ばれている。ヒップホップは一夜にして生まれたわけではない。ハークは自らのパーティーを通じて、後にヒップホップと呼ばれる音楽の原型を少しずつ形作っていった。そして、そのヒップホップが育っていく試験管となったパーティーの第一歩こそ、50年前の8月11日に行われた“BACK TO SCHOOL JAM”だった。だからその日が、ヒップホップの生誕記念日とされているのだ。