『Illmatic』というアルバム・タイトルは、刑務所に服役中だった「イルマティック・アイス」という通り名の友人から、敬意を込めて引用したとナズは94年のインタヴューで語っている。そのイルマティック・アイスのルーツは「illmatical」という単語であり、その単語を初めて世界に紹介したのは、ヘロイン中毒の母親を持つパーシー・リー・チャップマンというクイーンズの悪ガキだった。パーシーは、スーパー・キッズというデュオのMCとして、同じプロジェクトに住むマーリー・マールのプロデュースで“The Tragedy (Don’t Do It)”というシングルを86年、わずか13歳の時にリリースし、その後、伝説のジュース・クルーのメンバーとして、マーリーのアルバム『In Control, Vol.1』(88年)に“トラジェディ”の名義で2曲参加する。そのうちの1曲“The Rebel”で彼は「イルなんか忘れろ、オレはイルを超越した(I get illmatical)」とラップしており、それが「illmatical」(beyond illやsupreme illの意)という単語がライムされた瞬間だった。
『In Control, Vol.1』のレコーディングの直後、トラジェディは強盗容疑で逮捕され、しばらく刑務所のお世話になるが、服役中に読んだマルコム・Xの自伝に感銘を受け、出所後は“インテリジェント・フッドラム”に改名して再起を試みる。フッドラムとは同自伝の中の章のタイトルから採っており、クラックを売り捌いてサヴァイヴしていた自分の過去は否定せず、ストリートの不良少年(フッドラム)が知性(インテリジェント)を備えた大人へと成長した過程を自ら体現する意味が込められていた。マーリーは『In Control, Vol.1』収録の“Live Motivator”がナズやモブ・ディープに繋がるクイーンズ・スタイルのラップの原点だとインタヴューで語っており、パーシーのラップ・スタイルを高く評価していた。まだガキだった頃から目にかけていた彼のカムバックを、マーリーはトータル・プロデュースという形でお膳立てする。
このアルバムがリリースされた90年は、マーリーと〈 Cold Chillin’ 〉の関係性が悪化し、外部仕事が増えてきた頃で、マーリーが全面バックアップしたLL・クール・Jの最高傑作『Mama Said Knock You Out』(90年)と制作時期が被っている。それ故に、LLのヒット曲“Around the Way Girl”ほどキャッチーではないものの、ソウル・II・ソウルのグラウンド・ビートを組み込んだ“Back to Reality”やジャジーに駆ける“Keep Strivin’”では、マーリーの新しいサウンドが楽しめる。また、“Say It Loud I’m Black and I’m Proud”からヴォーカル・サンプルした“Black and Proud”を好例にマーリーお得意のジェームス・ブラウンのサンプリングは絶好調で、“Party Pack”に“No Justice, No Peace”、“Arrest the President”と、白熱するドラム・ブレイクやJBのシャウトがアドレナリンを過剰に分泌させてくれる。中でも“Arrest the President”は自分は自らの罪の責任を取らされる形で逮捕されたのだから、大統領もその政治責任をとって逮捕されろと訴える舌鋒鋭い聴きどころだ。これに限らず、“Black and Proud”に“No Justice, No Peace”と政治や人種の問題にメスを入れたテーマの曲が多く、ブランド・ヌビアンやプア・ライチャス・ティーチャーズ、そしてX・クランと、コンシャス・ラップの流行に共鳴していた点も本作の特筆すべき点である。ジュース・クルーの先輩クール・G・ラップの“Met at Work”のオマージュだろうか、定番のブレイク・ビーツ“Apatch”を組み替えた“Trag Invasion”はラージ・プロフェッサーとの共作で、若い世代の台頭を感じさせる。